非リア旅、たまにリア旅

本やら映画やらの、他人の旅について勝手にあーだこーだ言う。たまにリアルな旅を自分語りする。

『路上(オン・ザ・ロード)』ジャック・ケルアック

コロナウィルスの影響で外出の自粛生活が続ている。

当面の間、旅は控える他ないが、旅好きには耐え難い時代がやって来たものだと察する。

私自身はここ数年、子育てに追われて旅どころではない生活を送っているので、

巣篭もり生活にも耐性を発揮してはいるつもりだけれど、

所謂、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひ止ぬ悶々とした日々もある。

そんな時、家で旅本を読んで非リア旅に浸るのも一つの処方だ。

 

3月ごろから巣篭もりで読書時間が増えたため、

これまで読まずにとっておいた次の3冊を同時に読み始めた。

 

『On the Road』Jack Kerouac

『Graphs, Maps, Trees』Franco Moretti

『Case Grammar Theory』Walter A.Cook,S.J.

 

下2冊は文学理論と言語学学術書で、旅本ではない。

家に篭ってお堅い本ばかり読むと気が滅入るので、その間の気晴らしにケルアックの『路上』を選んだ格好だ。

因みに、この『路上』は恥ずかしながら43歳にして初読である。

私自身、毎晩クラブで乱痴気騒ぎをして、女友達と車上生活のようなものを送っていた10代から20代前半にも、

給料を貰って南米やアフリカをバックパック旅行していた20代後半にも、

文学青年が抱くような憧れをケルアックに対して抱いたことはなかった。

現に手に取って読み始めた今も、私にとって『路上』は、ただのテキストでしかない。

 

とは言え、『路上』がテキストとして魅力がないというわけではない。

ケルアックの神話に興味がないだけだ。

ロール紙に段落を設けずに一気にタイプしたという逸話もさほど重要ではないし、

よく言われるジャズの即興性云々の文体というのも実は理解できていない。

文中のダッシュの多用はカジュアルではあるが、ジャズエイジと呼ばれる一つ前の世代のフィッツジェラルドヘミングウェイを差し置いてジャズとの関連性が強調される理由が今一分からない。

それでも、ケルアックの文体には日本人として注目すべき点がある。

それは、俳句との親和性だ。

 

ケルアックを始めビートジェネレーション詩人は英語俳句でも有名だが、

『路上』の登場人物カーロ・マルクスのモデルとなったアレン・ギンズバーグの代表作『カリフォルニアのスーパーマーケット』にその表現手法のヒントがある。

ウォルト・ホイットマンに問い掛ける形式でスーパーマーケットの商品と買い物客を描写する際に、

ホイットマンの列挙法からの影響を匂わせている。

 

 

What thoughts I have of you tonight, Walt Whitman, for I walked down the sidestreets under the trees with a headache self-conscious looking at the full moon.
  In my hungry fatigue, and shopping for images, I went into the neon fruit supermarket, dreaming of your enumerations!

 『A Supermarket in California』 Allen Ginzburg

 

「your enumerations」、つまり、ホイットマンの列挙法とは、物を羅列することでイメージや情感などを喚起する手法だが、

ケルアックの文章でも物や物音の列挙が頻繁に行われている。

例えば、アイオワ州デモインの安宿で外界の物音を聴きながら物思いに浸るシーン。

 

I was far away from home, haunted and tired with travel, in a cheap hotel room I'd never seen, hearing the hiss of steam outside and the footsteps upstairs, and all the sad sounds, and I looked at the cracked high ceiling

『On the Road』Jack Kerouac

 

どこにでもあるありふれた音や物を並べていくことで物憂げな雰囲気を醸し出すことに成功している。

死後に出版された『Book of Skeches』という、アメリカ中を旅して街中で見た物や人をひたすら羅列するように描写した本があるが、

ケルアックが学生時代に詩を書いていたところ、友人から「画家のように言葉で街をスケッチしたらどうか」と勧められたのが発端だそうだ。

対象を突き放したリアリズムの描写法を完成させたヘミングウェイの影響も感じさせるが、客観的な事象を羅列した後に「and all the sad sounds」とまとめてしまう辺りがケルアックの茶目っ気でもある。

 

実は、この物を並べて「モノに語らせる」手法というのは、俳句の基本テクニックなのだ。

 物尽くしの代表に江戸時代の俳人山口素堂の有名な句がある。

 

目には青葉 山ほととぎす 初鰹

(山口素堂)

 

季語を並べただけで殆ど何も言ってはいない。

読み手は行間や余白を読むということを課せられるのだが、

ただ余白に頼るためだけに物を羅列しているわけではない。

俳句は短詩であるが、通例では、その短い内容に二章を要求する。

二章というのは意味的な区切りを意味する。

俳句に切れ字が必要とされるのは区切りを明示する効果があるからで、

切れ字を使用しない場合、「二物衝撃」という、場面が切り替わるような異なる物どうしをぶつけあうことで句を切る手法がある。

上の句の場合、青葉、山、ほととぎすには場面の移りはないが、初鰹で急に視点が転じる。

この転じが初夏の爽やかさを引き立てるのではないかと思う。

なお、この句は場面の転じは下五の初鰹で起きているが、感覚の転じが既に上五、中七で起きている。

青葉は視覚的なものだが、ほととぎすは目に見えているものというより、囀りを耳にしていると捉える方が遠景としての山の効果が活きて来るのだ。

ケルアックの安宿での文章も感覚の移ろいによる転じが起きている。

遠くの音と重なり合う周囲の物音を聞き(hearing)ながら、ガタガタと鳴る天井を眺めて(looked at)いるのだ。

 

先に、私は『On the Road』と並行して読んでいる本を挙げたが、その一つである『Case Grammar Theory』に1968年に登場したフィルモアの格文法の説明がある。

格文法とは、語の役割(格)を統語上の表層格と、意味上の深層格に分けて捉える言語理論だ。

その理論の中で、hear(聞こえる)やsee(見える)は、深層格では動作主を持たないと示されている。

つまり、物音が聞こえているという事象は、主体が意図的に聞き取ろうとして生じるものではなく、客観的にそこに発生している事象だと見なされているのである。

この考え方は、主語と述語の語順にうるさい分析言語である英語の習慣というよりも、

主語を省略しやすい日本語の感覚に親和性が強いのではなかろうか。

「私は、鳥の囀りが聞こえた」という文章は、英語では可能でも日本語の習慣では不自然なのだ。

「あなたには聞こえなかったかも知れないが、私には聞こえたんだ」という主張が伴わない限り、わざわざ「私は」を付けないだろう。

ケルアックが、主語を省略した「hearing」を好んで用いたのも、客観的に存在する物音を羅列するスタイルを強調する必要から生じているのではないかと思われる。

この言語感覚こそが俳句的なのだ。

と同時に、60年代後半にフィルモアが深層格の分析手法を生み出して行った背景としてアメリカの言語状況を想像すると、

ビートジェネレーションの影響がなかったのかと勘繰りたくなるが、考えすぎだろうか?

 

芭蕉は『奥の細道』を著した際、西行の足跡を意識したが、ケルアックも『路上』の行く先々で、その土地に所縁のある先行作家を意識している。

例えば、シカゴからデンバーに向かう辺りではヘミングウェイについてしきりに言及しており、途中、トラックの荷台で乗りあった若者たちと酒を呑む場面があるが、

これなどはヘミングウェイが『日はまた昇る』でパンプローナの牛追い祭の最中、

トラックの荷台で皮袋に入ったワインを呑む場面のオマージュではないかとさえ思われる。

この他、カリフォルニアのフレズノをバスで移動している際にサローヤンを思い出し、同じくカリフォルニアの田舎町でスタインベックの『二十日鼠と人間』の台詞を口にする。

彼らはケルアックに先行する世代に属するものの、この小説と同時代にまだ生きているのだが、

名前を変えて実際に登場するバロウズギンズバーグとは違って、どこか歌枕のように扱われている。

 

四章に渡る『路上』の一章の旅の終わりの方で、主人公はピッツバーグ行きの電車に揺られながら、ハリウッドの売店で盗んだフランス人作家アラン・フルニエの『Le Grand Meaulnes(モーヌの大将)』よりも、アメリカの風景を読む方がいいという。

 

I had a book with me I stole from a Hollywood stall, "Le Grand Meaulnes" by Alain-Fournier, but I preferred reading the American landscape as we went along.

 

フランス人作家の小説を盗むという、社会的な評価を転倒させる行為に続いて、

それよりはアメリカの風景を読んだ方がいいと括り、読むという述語の本来的な対象を風景にすり替えることで二重の転倒を計っている。

ホイットマンに倣って、アメリカの風景を直接に礼賛すれば牧歌的になり過ぎるからなのだろうか、アメリカ中を旅し街中をスケッチして歩いたケルアックは、ここに来てかなり回りくどい方法でアメリカの風景を礼賛している。

本音を言う時の気恥ずかしさが見え隠れしているのだ。

だからこそ、この一文に『路上』の、少なくともその一章の主題があるのではないかと思う。

そして、一章の旅が、先行作家を巡る旅だったとすれば、主人公がその先に行き着いたのは、作家たちによって描かれたアメリカではなく、アメリカの風景そのものだったと言える。

これは、アメリカ文学を成り立たせる場を模索する若い作家の心の成長を描いたビルドゥングスロマンとも捉えられる。

アメリカ文学」を焦点化して読むと、『路上』は決して行き当たりばったりの退廃的な小説ではなくなるのだ。

並行して読んだ『Graphs, Maps, Trees』でフランコモレッティは、文学ジャンルのライフサイクルをデータ分析した結果を解説しているが、

ビルドゥングスロマンは廃れてしまった他のジャンルと異なり、一世紀ほど隔ててサリンジャーによって復活させられたことを例外として指摘している。

サリンジャーとケルアックは三歳違いの同世代であるどころか、コロンビア大学で入れ違いになっている。

51年に出版されてブームになった『ライ麦畑でつかまえて』をケルアックが全く意識しなかったかどうか分からない。

 

この文章を書きながら、参考のためにアラン・フルニエの英語版Wikipediaを読んで知ったのだが、

『Le Grand Meaulnes』の「Grand」は、大将以外にさすらい人などの多義性があり英語への逐語訳が困難で、直訳は「Great」になる。

このタイトルの「Grand」に影響を受けてフィッツジェラルドは『The Great Gatsby』のタイトルを生み出したのだそうだ。

語り手であり、ギャツビーの夢の後継者であるニックが、ギャツビーの死後に大都会ニューヨークを去り故郷の中西部に帰って行く姿に、書を離れて「the American landscape」を読むことに到達した『路上』の主人公の姿を重ね合わせることは不可能ではない。

ケルアックが主人公に盗ませる本に『Le Grand Meaulnes』を選んだのは全く恣意的ではないと考えた方が賢明だろう。